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凍結中のサイト「雪見酒girl's talk(http://loveasgard.yukimizake.net/)」の続編など。 聖闘士星矢アスガルド編、黄金、女の子中心。捏造多め。ノマカプ推し。
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    天敵に遭遇した小動物みたいに、絵梨衣が震えている。
 大判のトートの紐を、両手でぐっと引きよせて。
 氷河は、ゆっくりと彼女に近付いた。
 もともと喜怒哀楽をおもてに出す方ではないが、自分で顔がこわばっているのがわかる。
 氷河は何も言わず、重たそうなトートに手をかけた。女性に親切な彼の、癖というか習慣みたいなものだ。
 絵梨衣は両手でトートを抱き締め、首をふった
「どうして? どうしてここに氷河さんがいるの?」
「それは、こっちが聞きたいよ」
 氷河は平坦に
「何日も連絡をよこさないから。心配するだろ。職場に問い合わせたら、休暇だっていうし」
「あ……ごめ……」
「それから、アレクサンドラ・パーヴロヴァに会った。絵梨衣のことを聞いたら、たぶんここに来るんじゃないかって、教えてくれた。まさか、鉄道を使うとは思わなかったけど」
 絶句する彼女に、言葉をはさむ隙も与えず、畳みかける。
「オレが生まれた家にも行ったんだろ。それで、隠蔽したくなるものを見つけたと。そういうことでいいんだよな? 君がここに来た理由も、荷物を渡せない理由も」
「……」
 絵梨衣は、否定も肯定もしなかった。
 ただ、ワックスがはげかけた聖堂の床に、視線を落としただけだ。
「答えてくれるよな? その荷物の中身は?」
 絵梨衣は、首をふる。
「日記、か?」
「……」
「読んだのか」
「……」
「……」
 嘘のつけない彼女を、ずっと愛おしく思ってきた。
 だが、今は違う。
 彼女はいったい、何に頑なになっているのか。
 母の日記の何が、彼女を頑なにさせるのか。
 もちろん、思い当たる節はある。
「母が娼婦だったって知って、軽蔑した?」
 軽い調子で、あたりをつけてみた。
 絵梨衣の頬が、一瞬で蒼白した。
『どうしてあなたが知っているの?』と、言わんばかりだ。
 氷河は、苦笑した。
 バレリーナを廃業した直後、母がすさんだ生活を送っていたことは、父から聞いている。
 8歳だった氷河を「娼婦の子」と呼んだのは、彼だ。
 ショックは受けなかった。言葉の意味がわからなかったからではなく、説得力がなかったからだ。
 氷河の知っている母は、針子をしながら生計を立てていた。夜中に目を覚ますと、ランプの光を頼りに縫い物をしている後ろ姿を見つけた。 貧しいことは、貧しかったと思う。 だが、生活態度も服装も慎ましくて、娼婦のそれと一致しない。そもそも、道を踏み外すような交友関係なんて、気配もなかったのだ。
 父の言葉と現実の母の間に接点がなさすぎて、「もうろくしてんのか、この爺」と思ったのが正直なところだ。
 ごく最近になって、祖国の孤児たちの現状を知って、あり得ない話ではないと思うようになった。父の援助なしに足を洗うことは不可能だったであろうとも。アレクサンドラも、ダメだししてくれたし。とどめは、絵梨衣の顔に書いてある。
「じゃあ、憐れんでいる?」
「……違うよ」
 絵梨衣は彼を見上げたまま、へなへなと座り込んだ。
 真っ白な顔で、口を一文字に結んで、トートの持ち手を血が出そうなぐらい握りしめて。
 氷河は彼女の眼前に膝をついて、ゆっくりと手を差し出す。
「返せ。お前のものじゃない」
 だが、彼女は意固地にそれを離さない。
「どうして」
 頑なで無力な娘を、氷河は冷たく見おろした。
「渡せない理由ぐらい、話せよ」
 絵梨衣は、我が子みたいにトートを抱きしめ、首をふるばかりだ。
 辛抱強い氷河も、さすがに苛ついてきた。

「これは……氷河さんのじゃない」

 電気のない聖堂が、刻一刻と暗くなってゆく。
 黄昏の近い薄闇の中で、絵梨衣はきっぱりと断言した。
 
「氷河さんのじゃないんだよ」

 いつも、どんなときも慈しんできた娘に、憎しみに似た苛立ちが沸いた。

「じゃあ、お前のか?」

「違うよ」

 一歩前に出ると、彼女も一歩引いた。
    だが、目から怯えの色は消えている。

「あなたのお母さまは、素晴らしい女性だわ……」

 絵梨衣は、愛しそうに日記の入ったトートを抱き締めた。
 もしも時を遡ることができたら、自己紹介よりも先に、彼女を抱きしめたい。
 怪訝な顔をされても、不審人物と怪しまれてもいいから、と。

「同じ女として、こうしなくちゃいけないと思ったの。うまく説明できないんだけど」

 氷河は聖母子画を見上げ、次に絵梨衣の白い顔を見おろした。

「私のことは、好きにしていいよ。殺しても、湖に沈めても」
「……」
「でも、読まないで」
「正気か?」
「ええ」
「こんな風にしても?」
 と、半ば試すつもりで、顎を掴み、細い腰を引き寄せた。強引に唇を重ね、貪るように舌を入れた。
「んっ……んぐっ……」
    絵梨衣の喉が苦しげに鳴る。抱き締めているトートが邪魔だといわんばかりに胸を掴むと、絵梨衣は無抵抗で腕をおろした。トートの持ち手を握りしめたままで。
    氷河は、抱え込むようにして彼女を床に倒した。スカートをめくりあげ、白い胸をあらわにしても、抵抗しない。
   まるで、生け贄になることを受け入れた殉教者だ。どんな責め苦にも信仰を手放さない殉教者のように、彼女もトートを手放さない。
    氷河はため息をついた。彼女の肩の辺りに両手をついて、

「怖く…ないのか?」
   自然に閉じていた目をゆっくり開き、絵梨衣が微笑む。
「怖くないよ」
「嘘つけ」
「もう、怖くない」

 絵梨衣は聖女のように微笑んだまま、両手を広げて背中を抱きしめてきた。

「お母さんになること、もう怖くない」

「……!」
 
 氷河さん、あのね。あなたは私に、何をしてもいいんだよ。
 殺しても犯しても、好きにしていいよ。
 氷河さんには、そうする権利があるから。
 もし生き延びて、子供ができたら、きっと私はその子にこう言うの。
「あなたのお父さんは、愛と正義に生きる素晴らしい人よ」って。
 子供にはきっと、理解できないと思う。
 でも、女性が男性を愛するって、そういうことなの。
 あなたのお母さまに教わったの。
 ただ、我が子には説明しづらいだろうなあ。
 罪を犯した女が母親になったら、秘密なんてつきものだよ。
 私だって、エリスに憑依された過去なんか、絶対に言えないし。

 彼女はそう笑った。一滴の涙が頬を伝った。

 この娘は――本当に相沢絵梨衣なのだろうか。
 いつだって一生懸命に生きていて、いたいけで、庇護の対象だった彼女は、どこにいるのだろう。
 怖い思いをさせた、ひどい扱いをしたのに、氷河を抱きしめる腕は限りなく優しい。
 まるで、幼い日に抱きしめてくれた、母のように。
 氷河は、虚空をみあげた。
 薄闇の壁に飾られた聖母子のイコンが、ふたりを無心に見おろしている。取り乱した氷河を責めもせず、優しく見守っている。
 氷河は乱した服と息を整えて、彼女の肩を包むように抱き起こした。
 力は加減していたつもりが、無意識に凍気が漏れていたのだろう。体が冷たくなっている。

「ごめん……」

「なんで謝るの? 私、言ったよね。氷河さんにはそうする権利があるって」
 氷河は苦笑した。
「親父だったらいってただろうけど。違うだろ、こんなの」
「違わないよ」
「一緒にするなよ。わかったよ。トートの中身は詮索しない」
 氷河は、やれやれと溜息をついた。
 遺品を盗んで隠そうとする絵梨衣につい感情をあらわにしてしまったが、品物そのものについてはさほど興味がない。
「そのかわり、ひとつだけ教えてくれ」
 氷河が折れたことで、絵梨衣から悲壮感が消えた。切羽詰まった美しさにそそられないといったら嘘になるが、あれは違う。愛しい男に身を任せる表情ではない。というか、惚れた女にあんな顔をさせてどうする?    氷河は久しぶりに、血を分けた父親をぶん殴りたくなった。
   身を売るような覚悟なんか、させなくない。だから
「証拠隠滅なら、モスクワでもできたよな。燃やせばいいんだから。なんで、ここに来た?」
 低く、おだやかな声で、耳元に囁いた。 
「……。いてもたってもいられずに列車に乗り込んだのが本音で、考えがまとまったのは車内でなんだけど」
「ああ」
 まぁ、そんなところだろう。
「この教会に、引き取っていただけたらと思って」
「ここに?」
「うん。お母さまって、ここで洗礼を受けたんでしょう? 彼女の天国に、一番近い気がしたの」
「そう……か」
 ようやく氷河は、絵梨衣のしたかったことが理解できた。
 広い湖に厚くたちこめた霧が、すっと晴れた気分だ。

「絵梨衣は、少女時代の母を守ってくれたのか……」

 そうだ、恐らく初めて氷河に逆らった理由は、そういうことだったのだ。
 氷河自身は、日記を読んだところで母への崇拝は変わらないだろう。けれど、母は息子が知ることを望むだろうか。
 氷河だって、戦いの詳細を絵梨衣に話したことはないし、話そうとも思わない。父となって我が子を抱く日がきても、子供にそれを言いはしないだろう。我が子が聖闘士になったとしても、拳で伝えるだけだと思う。
 勝手に日記を読んだという点では絵梨衣も誉められないが、少なくとも彼女は代価を支払おうとした。それも、命を賭けて。
(そう……か) 
 額にかかる髪を指先でかきあげると、絵梨衣が不思議そうにこちらを見上げてきた。つぶらな瞳に、苦笑いする自分の顔が映っている。
 そっとあごをひきよせ、青ざめた唇にキスをした。勢いと欲望にまかせた激しいキスではなく、謝罪のキス。白かった頬に赤みが戻った。いつもの絵梨衣だ。
「氷河……さん」
「怖い思いをさせて、ごめん」
 キスの余韻もあってか、彼女はポカンとしている。
「……怖く、なかったよ?」
「でも、ごめん」
「……」
「日記、絵梨衣が発見してくれてよかったよ。ありがとう」
 仏頂面だった氷河が心から笑うと、絵梨衣の表情も和らいだ。
「発見してたのがオレだったら、村に持って帰っただろうし。あっちに置いておいたら、読みそうなヤコフとかアイザックとか、泣きそうな水晶先生とか、クールに号泣しそうなカミュとかいるし。死者への冒涜もいいとこだよな」
「そ……そうね」
「よし、行くか」
 氷河が先に立ち上がり、絵梨衣の肩から重たいトートバッグを預かった。
 もう抵抗はない。日記の重さが体から離れても、彼女はペタンと尻餅をついたままだ。
「どうした?」
「いえ、あの。腰が……抜けたみたい、デス」
 氷河はパチパチとまばたきをした。
 まあ、そうなるか。元凶は自分だし。 
 ならば、と、ふたり分の荷物をまとめて肩に担ぎ、彼女を横抱きにして抱き上げた。
「きゃっ」
 なんかこう、申し訳ないぐらい冷えている。
 そういえば、近くにバーニャがあった。山小屋風の宿泊施設に隣接していたと思う。今の時期に営業しているかどうかはわからないが、近所の人に頼めば鍵を貸してくれるだろう。シベリアの民は親切なのだ。
「行くか」
「ど、どこに?」
「バーニャ」
「バーニャって……」
 朗らかな笑顔が固まって、カーッと赤くなった。
「いや、あの、バーニャって、バーニャって、あのバーニャですよねっ????」
 バタバタ騒いで逃れようとするが、彼女の力では不可能だ。
 バーニャとは、ロシア風のサウナ。
 ロシア国民が、全裸でたしなむ娯楽施設である。
「あれ? 苦手だったか?」
 至近距離から顔をのぞき込むと、彼女はもっともっと真っ赤になって、ブンブンと首をふっている。
(あ、そういうこと?)
 強姦しかけておいて説得力がないが、この時の氷河は彼女を温めることしか考えていなかった。バーニャにありがちなロマンスなんてものにはもともと縁がないし、今の今まで考えたこともない。
 でも、かわいい。こういうところが、かわいい。ちょっと意地悪したくなるかわいさだ。
「言質はとったはずなんだけどな」
「う」
「オレ、お前のこと好きにしていいんだろう?」
「そ……そうだけど。そうだけど。そうなんだけど」
「じゃ、行くぞ」
「う~……」
 ほとんど涙目になって赤面している。
 彼女の小さな手が肩の辺りの布地をギュッとつかんできた。
「……わかったわ」
 氷河の心臓が、トクンと高鳴った。
 この流れで、了承するか???
(まったく……)
 氷河は苦笑した。
 奥手なくせに、よく言うよ。
「バーニャはオレが用意する。支度ができたら呼ぶから、毛布にくるまってミルクでも飲んで待っててくれ。絵梨衣が暖まっている間に買い出しに行くから、入り口の鍵はかけておけよ? 明日は湖の周辺を歩きたいな。母が育った村も、ゆっくり見たいし」
「へ?」
「絵梨衣のこと、好きにしていいんだろ?」
「う、うん?」
「じゃ、まずは神父に頼んで、これを預けるぞ。ほら」
 氷河は絵梨衣をおろして、足の先を床につけてやった。絵梨衣はちゃんと二本の足で床を踏みしめて、しばしポカーンとした後、からかわれたことに気がついたらしい。
「氷河さんの、ばかばかばかばかー!」と、広い胸をポカポカやってきた。
  

 コインランドリーに捨てられた赤ん坊は、もう泣いていない。
 争いの女神が乗りうつった際に悪事を尽くした記憶にも、泣かない。うつむかない。
 自分の足で立って、その白い手のひらで幸せを掴む日が、その幸せを分かち合う日がきたのだ。

 この広大なシベリアの片隅で、愛する人の傍らで――。

 

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   深夜にモスクワを出た列車は、モスクワ時間の午前4時過ぎにイルクーツク駅に到着した。朝焼けを脱した空が、青すぎて眩しい。シベリア鉄道沿線は、今日もよく晴れている。
 東西に長いロシアは、東端と西端で8時間もの時差がある。
 モスクワとイルクーツクの時差は5時間。絵梨衣は携帯電話の時計を、イルクーツク時間の午前9時に修正した。
 この三日間、時計は見ずに太陽の運行で起きて寝て昼寝までしちゃったおかげで、時差ぼけはない。というか、よくぞここまでダラダラして過ごしたものだと思う。
 絵梨衣は荷物をまとめ、モスクワではまだ時期早々と身につけなかった帽子と手袋をして、ファー付きのダッフルコートに身を包んだ。
 列車の中は空調が利いてあたたかかったけれど、外は寒そうだ。
 どこまでも空が高くて、空気が澄んでいて、アイスブルーを基調とした駅舎とのコントラストが美しい。

 
    ホームに降りて冷たい空気を吸った瞬間、「懐かしい」と思ったのは、何故だろう。   
    ざっと、まわりを見渡して、なんとなく納得した。
    産みの親の国籍なんか知らないけど、絵梨衣の見た目は混血で、白人と黄色人種が混ざっている。
    氷河に惹かれたのも、民族的な見た目が近いせいかもしれない。
    東京でもモスクワでも、絵梨衣はハーフと認識されてきた。金髪の上、西洋人にしては背が低く童顔で、東洋人にしては彫りが深い。東京もモスクワも、混血が少ないからだろう。目立っているというか、若干馴染みにくい自覚はある。
イルクーツクでは、絵梨衣の容姿は特に目立たない。異邦人なのに現地人みたいだ。とにかく、いろんな人がいる。モンゴル人や中国人みたいな肌や髪の人もいれば、モスクワに多い金髪碧眼もいる。というか、そうとう混血が進んでいるらしく、田舎なのに人種の坩堝、という不思議な光景が広がっていた。

    高校生の頃、自分のルーツが知りたくて、バイト代をはたいてDNA鑑定をしてもらったけど。
「バイカル湖周辺がルーツ」なんて、ユーラシア大陸とその周辺に住んでる人、みんなそうじゃん?!と、今さら身を持って思い知ってしまった。


 イルクーツクからは、バスに乗り換えた。白樺の林を切り開いた道を2時間弱揺られて、ようやく終点リストビャンカに到着した。
 バスを降りると、世界最大の湖バイカル湖が広がっていた。
    なんて大きいんだろう! 
 キラキラ光る水面や湖畔に打ち寄せる波が、まるで海みたいだ。
 なのに、潮の香りはしない。ただ冷たくて爽やかな風が吹いている。
 バスターミナルは、フェリーターミナルと隣接していた。通行口の広場には、待ちかまえてみたいに魚や土産物、家庭で作ったピロシキなんかを売るテントが並んでいる。
 バスを降りた人たちは散り散りになって、ある人はテントを物色し、ある人はフェリー乗り場に急ぎ、ある人はホテルをめざし、あるグループは紺碧に輝く湖にダイブした。
 9月下旬のシベリア地方、気温は摂氏5度程度だ。
 だが、ダイブした若者たちは笑顔だった。酔っぱらっているのか、素でテンションが高いのか、やたらパワフルだ。
 そりゃあ、こんなに広くて、湖底の石が見えるほど透明な湖を前にしたら、飛び込みたくなる気持ちもわからなくはないけど。
 絵梨衣は笑い声と、波の音を背後に聞きながら、湖沿いの道を歩きはじめた。
 村の外れにあるという、孤児院をめざして。

 坂道を登ったり下ったりするたびに、輝く湖が見え隠れする。息は切れるが肺は気持ちいい。アスファルトの東京や、石畳のモスクワにはない、新鮮な空気だ。
 鉄道沿線同様、バイカル湖畔も秋の盛りをむかえていた。
 赤や黄色の紅葉が、淡い水色と深い水色が織りなす湖が、陽光に照らされてキラキラ輝いていた。
 踏みしめる落ち葉さえ、宝石でできているんじゃないかってぐらいに色鮮やかだ。

 氷河さんのお母さまは、なんてきれいな場所で育ったのだろう。
 才能を見いだされ、単身モスクワに旅立った孤児は、どんな思いでこの美しい故郷を離れたのだろう。

 舗装されていない道をハイキング気分で進んでいくと、木々の隙間に聖堂らしきドーム型の屋根と十字架を飾った尖塔が見えてきた。
    どこからともなく、歌声が聞こえる。
(あそこが、孤児院か。受付は教会かな?)
 ロシアの教会は、屋根がタマネギみたいな形をしていて、とても可愛らしい。
 聖堂に近づくにつれ、歌声も近くなった。聖歌だ。子どもたちが歌っているらしい、高くて可愛らしい声。
 絵梨衣は、学校のように広い敷地をぐるりと散策した。
 子どもたちは、教会の横の広場で歌を歌っていた。
 みんな女の子だ。年かさの娘たちは絵梨衣より背が高く、体格もしっかりしている。年少の子は6歳ぐらいだろうか。仲良し同士が手をつないでいる。みんな可愛らしくて、ワンピースからのぞく手足がほっそりしていて、まるで妖精みたいだ。
 金髪碧眼の少女もいれば、アジア系の黒髪も、混血と思われるエキゾチックな顔つきの娘もいる。普通に混ざっている。混血児は自分ひとりしかいなかった星の子学園とは違う。
 絵梨衣が近付くと、誰がともなく気がついて、歌声が止まった。
「こんにちは。はじめまして。ここは孤児院かしら? 教会かしら?」
 少女たちがざわめき、目を合わせたりそらしたりしているうちに、やがて年長の娘が前に出た。まっすぐな金髪を三つ編みにして、白いおでこを出している。音楽隊のリーダーだろうか。いかにも、賢そうな少女だ。
「両方です。学校でもあります。何か御用?」
「ええ。神父さまにお会いしたいの」
「わかりました」
「イーラ、今日はお客さんが多いわね」
 深いボルドーのワンピースの娘が、年長の娘の腕をつつく。
「そうね。遠くから来た方を聖堂に案内されていたものね。まだ、聖堂にいらっしゃるかもしれないわね」
 イーラと呼ばれた娘はちょっと思案して、それからとびきりの笑顔を絵梨衣に向けた。
「ご案内します」
「ありがとう」
 絵梨衣は少女たちに飴を配りながら(仕事柄、飴を持ち歩く癖と、子供を見ると配る癖がついてしまった)この教会と孤児院について、いくつかの情報を得た。
 自分たちは、合唱クラブを作っていること。施設には60人近い少女たちが共同生活を送っていること。
 毎週水曜日と金曜日に、修道女たちがボランティアにくること。
 過去に何人か、オペラ歌手やバレエダンサーを輩出していること。
 コンピューターの授業が一番おもしろいこと。
 自分たちの親について。
 ある子供は好奇心をむき出しにして、ある子供は愛らしくはにかみながら、それぞれの言葉で答えてくれた。イーラの受け答えがやはり群を抜いて的確で、丁寧で、ユーモアもあって、高い知性を感じさせた。

 少女時代のナターシャは、どんな娘だったのだろう。
 ここの関係者たちは、ナターシャを覚えているだろうか。

 少女たちの話どおり、教会と孤児院が別棟でつながっていた。なにげに親近感があるなぁと思ったら、星の子学園と同じつくりだ。
 絵梨衣の胸が、懐かしさに震えた。

 星の子学園の子供たちを連れてきたら、きっと喜ぶだろうな。
 氷河さんが作ろうとしている孤児院の子供たちも――?

 少女たちは、聖堂まで送ってくれた。
 いろいろと案内をしたいけれど、個々の仕事や、夕餉の準備をしなくてはならない時間だという。
 絵梨衣はお礼を言って、イーラにサクマドロップの缶を渡した。
「食後のデザートにどうぞ。私はイチゴ味が好き」
 しっかり者が、子供の笑顔で笑った。絵梨衣よりもずっと背が高くて大人びて見えるが、8年生だから14歳くらいだ。
氷河と出会った頃の自分と同じ年だ。
イーラたち年長の娘たちが、小さな娘たちにチョコやフルーツをあげちゃって、自分たちはハッカだけ……なんてならなければいいなと思う。なりそうだけど?どうか、イチゴ味が彼女たちの口にも入りますように。


 聖堂の扉は木でできていた。シベリア地方の建造物は、木造が多い。木が豊富で林業を営む人が多いからだろう。石造りの立派な建物もあるが、第二次大戦後、日本人の抑留兵たちが造ったと、たびたび聞く。
 絵梨衣は外套を外して姿勢を正した。他は木造だけど、扉の持ち手は鈍色の金属だ。
 ギュッと握ったら、ひんやりと冷たかった。
「失礼します。神父さまは、いらっしゃいますか?」
 神聖な空気を犯さないよう、静かに静かに扉を開くと、ギィと木が擦れる音がした。
 絵梨衣は息をのんだ。
 黒衣の神父は、いなかった。
 白塗りのドーム天井の下には、いるはずのない人が立っていた。
 正面に飾られた古ぼけた聖母子のイコン(聖人画)を見上げている。
 冷たいノブを握りしめたま、絵梨衣は呻くようにつぶやいた。
「ひょうが……さん……」
 彼は青いシャツにフード付きのジャンバーを羽織っただけの軽装で、黙ってこちらに振り向いた。
 まるで、絵梨衣がここに来ることを知っていて、待っていたみたいに。


 絵梨衣は揺れる列車の中で眠り、たっぷり寝坊してから目を覚ました。
 車窓は、昨夜の幻想的な夜景と別世界を映していた。
 赤や黄色に紅葉した白樺の森が、どこまでもどこまでも広がっている。
 時折現れる山小屋風の茶色い家や、沼や湖とのコントラストがこの上なく美しい。真紅と黄金のタペストリーみたいだ。
 噂ではとんでもなく退屈な車窓と聞いていたが、短い秋のこの一瞬だけは違うみたいだ。
 絵はがきみたいなベストショットが、際限なく続いている。
 やがて白樺林が途切れると、枯れた草木が覆う荒涼とした大地が広がっていった。ところどころ、むき出しの黒い土が盛り上がっていた。そしてまた、金色の森が現れ、枯れた草原を通り越し――
 車窓をながめながらバッグをたぐりよせ、閉じなおした赤い日記に手を伸ばした。
 最もショッキングな記述を最初に読んでしまったが、前半はなんてことない。ナターシャの日記は、練習中に足を挫いた日にはじまっていた。
 何時に起き、何時に食事をとり、どんな薬を飲み、どんなリハビリをしたかの箇条書き。
 日記というよりは日誌だ。
 何を思ったか、感じたかは、全く言及しない。
 まるで印刷されたみたいに、美しいキリル文字だった。

 数ページの余白の後、唐突に文字が乱れた。
 筆跡は同じだが、不適切な語形変化、スペルの間違いが目立つ。
 得た金品の種類と値段、飲酒量、吸引する為に買ったボンドの量の記録と、彼女と関係した人物たちのイニシャルと、何をしたか、何をされたかなどが、スラングを交えて書き殴られている。
 氷河には見せられないと確信した、痛々しくて生々しい記録は、半年ほど続いた。

 それから、また数ページの空白の後に、突然、文字が整然とした。
 日付が、数週間とんだ。


 5月14日 
 サーシャが提供してくれた家に引っ越した。
 備え付けのストーブとデスクがあった。

 5月15日
 サーシャがビーツを持ってきてくれた。
 スープの作り方を習った。

 5月16日
 風邪をひいた。つわりが続いている。

 5月20日
 外から、私を呼ぶ声が聞こえた。
 スラムで一緒だった人たちだ。
 ひどく酔っぱらっている。子供を殺すと叫んでいる。
 誰かが通報してくれたのだろう。しばらくして、警察がやってきた。
 おもてが、静かになった。

 5月21日
 熱が下がった。黒パンを少し食べた。

 5月22日
 雨が降った。

 5月23日
 サーシャが来た。
 痩せすぎだと怒られた。
 舞台衣装を縫う仕事を紹介してくれた。
 
 5月24日
 仕事が決まった。
 仮縫いされた衣装を、2着仕上げた。
 
 5月25日
 仕事の量が増えた。
 ヒョウガが生まれてくる日の為に、石炭をたくさん蓄えたい。
 つわりが続いている。昨日から、何も食べてない。
 紅茶がおいしい。

 
 ――。

 バレリーナ時代よりは幾分暖かみがあるが、そっけない記録に戻った。
 空白の数週間に何が起こったのか、全く記述がない。
 突如日記に登場した「サーシャ」は、絵梨衣が取材したアレクサンドラ・パーヴロヴァだろう。
    あのあと図書館で調べたが、連邦時代の国立劇団の名簿に、「リストビャンカの孤児院出身のナターシャ」は、存在しない。最初からいなかったことになっている。
ようは、踊れなくなったバレリーナを追い出し、追放を隠蔽したのだろう。
そういうことが日常的に有ったことなのか、ナターシャに返す実家がなかったからかは、わからない。
ただ、言論も行動も厳しく規制されていた時代に、よくアレクサンドラはこれだけ動けたと思う。
 

 6月10日
 嬉しいニュース。サーシャがプリマドンナの座を射止めた。
 
 6月11日
 微妙なニュース。サーシャとミツマサの写真が、新聞に掲載されていた。

 6月12日
 サーシャが尋ねてきた。
 あんな男の子供を産むのは、やめなさいと言われた。
 
 6月19日
 つわりがひどい。水を飲んでももどしてしまう。
 今日は、一着しか縫えなかった。

 6月23日
 サーシャが会いに来た。しばらく会えないと言われた。
 私をかくまっていることを、劇団に感づかれたかもしれないと。
 サーシャ。愛しいサーシャ。麗しのアレクサンドラ。
 住む家を、仕事を、最大限の支援をしてくれた彼女に、恩返しもできないなんて。
 さよならのかわりに、おなかを撫でてくれた。
「この間はごめんなさいね。この子の命は、この子のものなのにね」と。
 ああ、サーシャ。胸が張り裂けそう。
 彼女が世界一のプリマドンナになれますように!


 赤の日記は、アレクサンドラとの別れで終わっている。
 絵梨衣は、呆然として日記を閉じた。そして、何を考えるでもなく反対側の寝台を見つめた。
 やがて列車が停車して、同じコンパーメントに白髪の老婆が乗り込でんできた。
 耳が遠いのか、性格か、挨拶をしてもニコリともしない。荷物を置いて白いテーブルの前に陣取ると、聖書を読み始め、やがて眠ってしまった。
 絵梨衣は赤いノートをトートにしまい、青いノートを手に取った。

 2冊目からは、彼女の思想や、人々との関わりが、詳細に綴られるようになっていた。


 愛について。
 私は「ミツマサ」という名の日本人を愛している。
 運命の出会いだった。
 場所は、高級ホテルから、劇場に向かう道の途中。彼のリムジンに、私が上手に、怪我をしないようにぶつかったのだ。
 彼は私には何も支払わず、待ちかまえていた仲間たちにお金を渡して、私だけをリムジンに乗せた。数ヶ月は遊んで暮らせそうな大金を手にした彼らは、助けを求める私を無視した。
 行き先は、高級ホテルのスイートルームだった。
 滞在期間中、ミツマサがいるときは彼と過ごし、いないときは家庭教師にロシア語のさらいなおしと、日本語を教わった。
 出国の前日、リムジンはスラムの入り口ではなく、裕福ではないが比較的治安の良い区画に止まった。小さな小さなアパートの一室で、親友のサーシャと再会を果たした。
 ミツマサと会ったのはそれっきりだ。

 世界中に恋人がいる彼を、サーシャは「最低の男」と言った。
 私とサーシャが、唯一意見が食い違った部分だ。

 確かに、ミツマサには、数え切れないほど恋人がいる。
 恋人の数より子供の数の方が、多いかもしれない。
 そんな子供たちのために、必要とあらば私財で孤児院を建てている。

 つまり、彼の愛は結婚という形態を必要としないのだ。
 
 私は彼を、素晴らしい人だと思う。
 愛と正義に生きるとは、こういうことだと思う。
 
 ヒョウガにミツマサの血が流れていることを、私は誇りに思う。
 


 ノート自体が贅沢品なのだろう。
 ページをめくるたびに、ノートが変わるたびに、字が細く、小さくなってゆく。
 比例して、内容は日に日に豊かになっていった。
 子供を愛し、子供の父親を愛し、神への感謝を捧げ続ける。
 敬虔なる正教徒に生まれ変わった女性の、祈りにも似た記録は、子供のいない絵梨衣には衝撃だった。
 もともとナターシャは、清らかで芯の強い娘だったのだろう。 
 不可抗力でねじ曲げられて濁流に呑まれた清水が、美しい瀬を見つけたようなもの。「生まれ変わった」というよりは、「戻った」だけなのかもしれない。 
 氷河が話してくれた母親像と、もはやブレはない。

「そうか……そういうこと、なのですね」

 絵梨衣は、物言わぬ冊子に語りかけた。
 出生を選べなかったことと、少女の頃に犯した過ちが、自分と重なる。
 怪我さえしなければ得たはずの栄光。それらと決別を果たそうともがく彼女を、身近に思う。愛しく思う。
 日誌のような記録しか書かなかった少女が、友との別れを経て情緒を得た。
 愛する子供を得て、しなやかさを増した。
 世間的には決して誉められない未婚の母を貫きながら、正しい精神のあり方を獲得していった。
 捨てられた子供のまま大人になってしまった感のある絵梨衣と、なんという違いだろう。
 赤い日記の少女に共感し、青い日記の母親に尊敬の念を抱き――絵梨衣は悟った。

 親子の情を知らなかった自分が、やるせない子供の立場からしかものを書けなかった自分が、はじめて違う視点を授かったのだと。

(この日記は……氷河さんには渡してはいけない)

 筋を通すという意味では、モスクワに引き返すか、コホーテク村を訪れて氷河に手渡すべきだと思う。
 ナターシャがこの世の人ではない以上、この日記の所有者は氷河なのだから。
 でも、それは絶対にナターシャの本意ではない。
 リストビャンカに、ナターシャの故郷に行かなくては。
 絵梨衣がひとりでそう思ったのではなく、日記と出会った瞬間から運命的にそういう流れなのだ。
 氷河には秘密ができてしまったけれど、秘密なんてお墓に持って入れば秘密じゃない。


 射しこんでくる西日に、軽くめまいを覚えた。
 そういえば、おなかがすいているみたいだ。
 朝ご飯はもちろん、昼ご飯も食べていない。
 今は――夕方だろうか。
 どこかの駅に停まった気がするし、車内販売のおばさんが来た気配もあったし、車掌さんが掃除に来た気もする。 
 それほど、夢中になって読み耽ってしまった。
 同乗したおばあさんは、聖書を片付けて編み物をしていた。 
 窓の外には、相変わらず白樺の森が広がっていた。太陽が西に傾いて、やわらかいオレンジ色に輝いている。キラキラ光る秋の陽をうけて、木々はますます美しさを増していた。




    連邦時代のプリマドンナで、現在は人気バレエ団の指南役であるアレクサンドラ・パーヴロヴァは、とても聡明で話し上手な女性だ。
 若いバレリーナやフィギアスケーターたちの尊敬を集めるのも頷ける、舞台の外にいても女王のような貫禄や華やかさがある。それでいて気さくで人懐っこいのだ。対談はびっくりするくらいスムーズに進んだ。
 収録を終えた絵梨衣は、午後からも厳しい練習に追われるフィギュアスケーターたちに日本のお菓子をプレゼントした。 
まだ十代の少女たちは、はにかみながら日本語で「アリガトウ」と言って、スケートリングに戻っていった。
 絵梨衣も「どういたしまして」と日本風にかえした。
 一方、時間に余裕のあるアレクサンドラには、緑茶に砂糖を入れたもの(なぜか、ロシア人にはノンシュガーよりウケがいい)と、古い雑誌を出した。
「まあ、懐かしいわね」
アレクサンドラの声は弾んでいたが、どこか緊張を含んだ。
「この方をご存知ですか?」
「そうね。懐かしいわ」
 ほうれい線に深い皺を浮刻みつつ、往年のプリマドンナは微笑みをくずさない。彼女は記憶力が抜群に良く、一度でも会話したファンの顔は絶対に忘れないという。ならば、同じ舞台で踊った娘を忘れるはずがない。
「ナターシャね。よく覚えているわ」
 対談の時よりは老いた、とても優しい声で、苦しげにこう続けた。
「練習中の事故で、足を痛めてしまって。辛かったのでしょう。ある日突然、宿舎を飛び出してしまったの。それっきり。そう、それっきりなのよ」
 聞きながら絵梨衣は、対談で使ったテープレコーダーをバッグの奥にしまいこんだ。
 仕事ではないし、記録も残らない。
 どうか知っていることを教えてくださいと、無言で訴えたのだ。
「あなた、混血よね? 東洋人かしら?」
「はい」
「……財団の人?」
    彼女に可能な限り、最も収音器に録音しにくそうなトーンで囁いてきた。
 絵梨衣は小さく首をふった。
    かわりに、携帯電話を取り出して、ロザリオの画像を見せた。ロザリオの横のカードに、「ナターシャは、このロザリオの持ち主ですか?」と書いておいた。
 美しい中年女性は、目を丸くしてうなずいた。
「…。元気で、いるのかしら?」
「いいえ」
絵梨衣は淡々と告げた。
「子どもの父を訪ねて日本に向かう途中、海難事故にあいました。子を救命ボートにたくして、船とともに沈んだそうです」
「……そうなの。あの美しい娘は、もういないのね。ああ、でも、なんて彼女らしいこと!」
 そしてもう一度目を伏せると、覚悟を決めたように「メモを」と手を差し出してきた。
 悲しみに沈みながらも、その何気ない仕草の優雅なこと!
 アレクサンドラにメモとペンを渡すと、彼女は音もなくそれを受けとった。
 そして、サラサラとメモを書いて返した。
「財団の人じゃないなら、息子さんのお使いかしら?」
「ええ。そんなところです」
「一介の新聞記者が、よく私にたどり着いたものね。誉めてあげるわ。なるほどね。愛しているのね。ナターシャの息子を」
 率直な物言いに、絵梨衣はおもわず赤面した。
「ああ、ナターシャはバカね。誰かを蹴落としてでもボートに乗り込んでいればよかったのに!
 彼女は緑茶をひとくち含むと、細い体で絵梨衣の全身をひしと抱き締めた。そして、いそいそと、そう、一刻も早くその場を離れなくてはならないといった様子で、出ていった。
 本当は長居したいけれど、それをしてはいけない。あなたに危険が及ぶかもしれないわ、と。
 絵梨衣は、住所らしき走り書きのメモを、大切に手帳に挟んだ。
 一箇所はモスクワ。もう一箇所は「リストビャンカ(イルクーツクからバスで)」と括弧書きされている。バイカル湖周辺の町だろうが、地図を見ないことには検討もつかない。

 絵梨衣は、彼女が出ていったドアに、言葉なく頭を下げた。

 今までは漠然としか感じなかった「連邦時代の言論統制」を、今、はっきりと体感した。
 現在のロシアでは、外国人記者にこれといった言論統制を行っていない。
 記事の内容も、文化や芸術、風俗、現地の流行を伝えるものが多い。
 上司の意向もあって、極度に政治的なテーマには深入りしてこなかった。
 親を失った子供たちの現状を伝えはするが、原因となった紛争についてはあまり触れず、「これからどうするか」という視点で書くからか、弾圧の対象になど、なったこともなかった。
 もちろん、ここはロシアだ。日本よりは水も治安も悪い。
 取材中、貧しい子供たちにカメラやボイスレコーダーをひったくられるなんて、しょっちゅうだ。でも、どこからともなく現れて職務質問をはじめる警官や軍人の方がずっと怖い。没収されたり拘束されたりはしないのだけど。
 そういう国なのだ。
 国立劇団を退団して久しいプリマドンナが、思い出話にさえ言葉を選ぶ必要がある。
 ナターシャの、退団の理由を述べてはならない。
 彼女がどこに行ってしまったかも。

 メモをくれたアレクサンドラの、勇気に感謝した。
 もしかしたら、二度と会ってくれないかもしれない。

 
 2時間後。 
 相沢絵梨衣はモスクワ市内の、スラムと呼ぶには裕福な、中流階層の居住地と呼ぶにはひなびた街の廃アパートに佇んでいた。
 
 小さな、とても小さな部屋だ。
 居間兼食堂兼寝室が、たった一間だけ。
 インテリアは、備え付けの薪ストーブと、引き出しつきのデスクだけ。食事用のテーブルもベッドもない。モスクワを発つ前に売り払ってしまったのだろうか。
 18年も空き家だったから、埃が厚く積もっていた。
 だが、薪ストーブに灰一つ落ちていない。すす一つ残っていない。
 床にも目立った傷がない。小さな男の子がいたのに、どんな躾をしたらこんなにきれいな床が保てるのだろう。
 しばらくはドアも開けっ放しで突っ立っていた絵梨衣だが、窓辺におかれたデスクに灰皿を発見すると、後ろ手で扉を閉めて、灰皿を拝借した。
 埃が厚く積もっているだけで、使用感のない灰皿だ。
 氷河の父親が尋ねてきた時の為に、用意しておいたのだろうか。
 今となっては、誰にも解らない。
 すったマッチをメモ用紙に近づけると、瞬く間に燃えて、灰になってしまった。

 この部屋に暮らしはじめた頃、ナターシャは10代後半だったはずだ。
 母ひとり、子ひとりで、何を思って暮らしていたのだろう。
 今となっては生活感がなさすぎて、想像がつかない。
 やかんひとつ残されていないキッチン、靴箱やクローゼットはもぬけの殻。
 絵梨衣は灰皿を片付けるつもりで、デスクの引き出しを引いた。
 滑りの悪い引き出しだ。開けようとすると、ひどく木が擦れる音がした。何かにひっかかっているのだろうか。絵梨衣は勢いをつけて、引き出しを一旦外に出した。
 引き出しの奥には、古ぼけたノートがひしゃげていた。

「あら?」

 絵梨衣は腕をつっこんで、ノートを取り出した。ひどい埃だ。これだけで、白い袖が灰色になるなんて。
     それより、ノートだ。
     ひゃげた紙を指で戻しながらデスクに並べると、赤い表紙が1冊、青い表紙が8
冊もあった。やたら分厚くて紙質の悪い粗悪品で、ちゃんと閉じているノートが1冊もない。それでも青いのは修繕した後が見られるが、赤い方は表紙がはがれかけていた。
 日記だろうか。
 この世に母親の遺品が残っていたなんて、氷河は夢にも思っていないだろう。
 嬉しそうな顔が目に浮かぶ。

 亡くなってしまったことは気の毒だけど、お母さんを覚えているのは佳いことだ。知らないよりはずっといい。きれいで優しくて聡明なお母さんだったら、なおさらだ。
 とりあえず、一番古そうな赤い表紙のを、仕事用のバッグに入れようとした。           ら、背表紙がほどけてパラパラと崩れてしまった。
 なぜか、避妊具が挟まっていた。
 読むつもりなんかなかったけど、飛び込んできた文字は

「ебать」だの「чмо」だの「хуй」だの。

 下品極まりないスラングが、洪水だった。
 なんだか、氷河から聞いているナターシャ象に、まったくそぐわない。
 思わず、ページを開いてしまった。
 日記の筆者は、貧窮にあえぐ不良少女だった。
 尋常でない飲酒量、女衒という名の仲間たち、通り過ぎた男たち、粗末な寝床と食事。
 感想はなく、事実を淡々と記録しているだけだが、かえって痛々しい。
 やがて、少女は「ミツマサ」と名乗る日本人男性の、子供を身籠もった。
 妊娠が発覚した時期から計算すると、氷河が生まれた年の1月下旬が出産予定日だ。
 同じ名前の違う愛人さんかもしれない。何しろ100人以上子供がいたんだから、と合点しようにも、子供の名前候補が「Хёуга(ヒョウガ)」とあっては、言い逃れできない。

 なんで見ちゃったんだろう。と、絵梨衣は肩を落とす。

 他人の日記を無断で読んでしまった罪悪感は、ない。むしろ、どうやってこれを隠滅しようかとさえ思った。

 ナターシャを軽蔑したわけではない。
 生きる手段がバレエしかなかった孤児が身一つで劇団を追い出されたら、どうやって生計を立てるか。察するまでもない。
 だけど、氷河にこの現実を受け入れられるだろうか。
     孤児は母親を神聖視する傾向がある。
 物心ついてから失った子は、さらにその傾向が強い。氷河はその典型だ。
 逆に、コインランドリーに捨てられ、拾ってくれた里親も乳児期に死別した絵梨衣は、「親」という概念がわからない。「きょうだい」もだ。言葉としては理解できるけれど、感情面では考えても考えても未知なのだ。
 だからこそ惹かれたし、渇望したし、諦めるためにエネルギーをたくさん使ってきた。孤児だからというよりは、人間として当たり前のことへの認知が、生まれつき歪んでいるのかもしれない。この歪みがエリスを呼んだのかもしれない、とさえ思う。
 母を知らない絵梨衣は、母を愛する氷河を、母の過去が傷つけることが怖い。

 絵梨衣がナターシャと接点を持てたことを、氷河は奇跡だと言った。
 絵梨衣はその言葉に、今は頷けない。
 もしも、奇跡がほんとうに存在するのなら、皮肉もセットされているにちがいない。
4話完結の連載。

「雪見酒girl's talk」で2008年に書いたCoin laundry babyの第3話で完結編。
氷河×絵梨衣。捏造過多。


乳児の頃の絵梨衣がコインランドリーに捨てられてた設定になっています。

絵梨衣の立ち位地は
1は、大学入学を控えた高校生 星の子学園在住
2は、ロシア語を専攻する大学生。バイト先の花屋に下宿
3は、某新聞社文化部所属のジャーナリスト。モスクワ支局勤務。モスクワで一人暮らし。








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「おかしいと思いませんか?」

 少しの隙間でも寒くて眠れないから、しっかりとカーテンを閉じた。
 もう片方の手は、携帯電話を握りしめている。
「なんで同じ国に暮らしているのに、日本にいた時より時差が開いてるのかしら?」
 電話相手は、超絶クールに「さあ?」と流してくれた。
 辺境のシベリア暮らしが長かった彼は、なぜか上流階級を思わせるきれいなロシア語を話す。日本語にはない音域に惹かれてこの言語を専攻してしまったぐらい、彼の話す言葉は美しいのだ。
 だけど、孤児の絵梨衣が学ぼうと思ったら、奨学生になるしかなかった。がんばって勉強をして、大学を主席で卒業して、某新聞社に入社した。
 今は、モスクワ支局に配属されてジャーナリストとして働いている。
 
「氷河さんに近付きたくて勉強したのに、かえって住処が遠くなるっていったい」

「それ、年間330回ぐらい聞いてる」
 低い、くぐもった声が呆れている。
「だって、口癖だもん」
 絵梨衣は口先を尖らせた。
「氷河さんは聖闘士だから、距離なんて関係ないと思ってたのよ。でも、関係あったね。おやすみなさいの電話が、あなたのモーニングコールになるって情緒がないわ。わたしががんばったなぁとか疲れたなぁってひとりでベッドに入る頃、あなたはサァ今日も元気に修行しようって起きるのよ。すれ違いを感じてしまう」
 言ってしまって、ハッとした。
 時差の話は毎日だけど、ネタのつもりでいた。
 愚痴にするつもりなんて、なかったのに。
「絵梨衣?」
 遠い声の、トーンが少し落ちた。
「ごめんなさい。わたしとしたことが、ちょっと疲れてるのかも。眠ったら、元気になるわ。おやすみなさい」
 絵梨衣は携帯の電源を切り、電球につないだ紐を引っ張った。
 途端、天井の高いアパートが、ひんやりとした闇に包まれた。
 ヒーターは、外出時もつけっぱなし。
 決して小さくないモーター音に、わけもなく孤独を感じた。

 ひとりきりの闇の中で「あーあ」と、つぶやいた。

 疲れている。そう、確かに疲れているのだ。
 ここのところ、寝不足のせいか頭が痛い。
 だったら、眠って解決しよう。
 絵梨衣はベッドに潜り込み、冷たい毛布の中で背中を丸めた。
 しばらくうじうじとすっきりしない時間をやりすごし、やがて淋しくまどろみに落ちた。


 それから、どのぐらい経っただろう。
 額に指が触れた感触で、目が覚めた。
「ひょーが…さん?」
 寝る前に因縁をつけてしまった恋人が、なぜかベッドに腰かけている。絵梨衣のひたいに、雪焼けした逞しい指をあてて。
「寝て」
 あわてて身を起こそうとする絵梨衣を、静かな声が制した。
 冷静だが妙に強制力のある響きに、絵梨衣はぱちくりとまばたきをした。
「ヒーリング、してるから」
「ヒーリング?」
「そう。やっぱり、風邪をひいていたんだな」
 光源はヒーターの電源だけの薄闇の中で、氷河が小さく微笑んだ。
 彼の指先が微弱に輝いた。絵梨衣はまぶしさにまばたきをした。
 なんの技かよくわからないけど、気持ちがいい。
「……氷河さんはすごいなぁ」
「なにが?」
「なんでもできるし、なんでもわかるんだもの」
「まさか。魔法使いじゃあるまいし」
 ヒーリングとやらが終わったのか、一旦指を離し、手のひらを広げて髪を撫でてくれた。 
「今日は、なんの取材だった?」
    氷河の低い声が、優しく問いかけてきた。
 言葉も態度もこれ以上ないくらい優しいけれど、沈黙や強がりは許さない。
    絵梨衣が何かかかえていて、でも自分からは話せない、何でもないと虚勢を張っているとき、氷河は必ずこういう風に問いかけてくる。
    絵梨衣が自分の力だけで頑張るべきときには黙って見守ってくれる…というか、そっけないほど全く助けてくれないけれど。
 絵梨衣は、消えて入りそうな声で呟いた。
「……ストリートチルドレン」
 髪を撫でていた手が、そのまま絵梨衣の体をひき寄せて、強く強く抱きしめてくれた。
 絵梨衣も、こらえきれずにすがりつく。
 昼間は一滴も流れなかった涙が、ほろほろと頬を伝わった。

 ジャーナリストにあるまじき適正のなさだが、絵梨衣は貧しい子供の記事が苦手だ。
 記者としては、賞やファンメールをいただいたりして、それなりの評価を得ていると思う。
 孤児育ちが共感を得るのか、割と労せず本音を聞きだすこともできる。
 だけど、その分深くシンクロしてしまうのだ。
 絵梨衣は記事をおこしながら「クールに、クールに、クールに」と、自らに呪文をかける。
 淡々と事実だけを、解りやすく、誠実に、と、念じながらキーボードを叩いている。
 決して、センセーショナルな文章にしてはならない。悲惨な現状が逆に伝わらなくなる。なにより、心を開いてくれた子供たちに失礼だ。
    けれど、無味無臭の記事であってもならない。情報が埋もれてしまう。そうなったら、露骨に悲劇を嘆いて煽る三文記事以下だ。
 こんなだから記事はたいそうにクールに仕上がるけど、本人がちっともクールじゃなくなる。
 平衡感覚がおかしくなったり、食事の味や温度を感じなくなってしまう。
 ヒーターがつけっぱなしの暖かい部屋で、暖かい紅茶をのみながら、日本から持ってきた毛布にくるまりながら、考えてしまう。
 今日会った子供たちは、寒くて不衛生な下水管の中で生活している。
 明日も、明後日も、明々後日も、ずーっと、あそこにいる。

 次は会えるの? 次に尋ねた時、誰が生きていて、誰がいなくなっている? 

 絵梨衣は、声を殺して泣いた。
    絵梨衣も孤児だけど、星の子学園にはちょっとした風邪から肺炎になって死ぬ子なんかいない。学校に行ってない子も、お風呂には入れない子もいない。麻薬しか娯楽がない子も、娼婦しか選べる職業がない子もいない。
    同じ孤児だけど、全然違う。
    どうしたらあの子たちは、屋根のある家に、暖かいスープに、就労につながる教育ににありつけるのだろう。
    絵梨衣は泣いた。
 無力な自分を噛みしめるように、強く奥歯を噛んで泣いた。

「ひとつ聞いていいか?」

 しばらくして、強く抱きしめてくれた腕がやや力をほどいた。
 涙に濡れた目で、彼を見上げる。

「今の仕事、いつまで続ける?」
 絵梨衣はパチクリとまばたきをした。
 涙の粒で、視界はぼやけたままだ。
「やめた方がいいってこと? メソメソするから向いてない?」
 自然と声が掠れて、指先が震えた。
「違う」
 だが氷河は、即座に、きっぱりと否定した。
「手伝ってもらいたいことがある」
「?」
「孤児院を、開くことにした」
 絵梨衣の悩みの解決策を、いきなり提示された気分だ。
  「孤児院を、氷河さんが?」
    絵梨衣は何度かまばたきした。氷河は少し背を屈めて、絵梨衣の目頭を指でなぞった。
「聖闘士の?」
「いや。素質がある奴がいたら鍛えるけど。そっちはメインじゃない」
「…」
「君が仕事に誇りを持っていることも、大学に恩義を感じていることも知っている。だが、君の助けがほしい。いつか、シベリアに来てくれないか?」
 絵梨衣は、すいこまれるように愛しい人の目をみつめた。
 よく晴れた冬の空みたいな青だ。
 どこまでも澄んでいて、迷いもなくて。
 夢見勝ちな少女時代に一目惚れしたぐらいだから、氷河はすこぶる美形だ。星の子学園の女の子たちに「王子様」と囁かれ続けて十余年。金色の髪に、涼しげな青い目、クールな振る舞いだから、ダッフルコートよりも王冠の方が似合うかもしれない。
 だけど、何年もつきあってなお氷河に見惚れてしまうのは、容姿が整っているからだけではない。
 立つ、座る。歩く。振り向く。笑う。メモをとる。本を開く。そういう日常的な一連の動作に、一本芯が通っているのだ。よどみなく、流れるようだ。それでいて、女性的なたおやかさはない。非常に男性的だ。しいて例えるならば、ありえないほど攻撃的なプログラムを軽々とこなして観客を魅了する、アイススケーターやバレエダンサーを彷彿させる。
 生き方の真摯さが、そのまま立ち振る舞いに反映されている。
 言葉が少ない分、態度が雄弁なのかもしれない。
 そんな彼が決意を言葉にしたら、もはや実行しかない。
 死なない程度には身の危険が日常的な今より、苛酷な人生が待っている。
 なんてビターなプロポーズだろう。
 だけど、絵梨衣は嬉しかった。
    育成歴的に子供慣れしているし、紛争や貧窮や深刻な家庭内暴力で傷を負った子らの養育が一筋縄ではいかないことも、現場で知っている。というか、五臓六腑に染みている。どうしたら心を開いてくれるだろうと、あらゆる角度から分析する作業が好きだったりもする。
 ジャーナリストと、孤児院のおかみさん。向き不向きでいったら、向いているのはおかみさんかもしれない。
 だけど。
「返事は、いつまでにしたらいいの?」
 氷河が氷河だから、いい加減な返事はできない。したくない。
「何年でも。ゆっくり考えればいい。10年後に断ったっていいさ。絵梨衣の人生なんだから」
 絵梨衣はまばたきをした。まつげがパチッと鳴って小さな水滴が頬を伝った。
 絵梨衣が頷いても断っても、たったひとりでも、その仕事をやり遂げるつもりなのだろう。普通の顔をして。「当たり前」に。
 強いな、と思う。
 この人は、なんて強くて大きいんだろう。
「今日は?」
 この話はここまで、とばかりに、氷河が話題を変えた。
「はい?」
「今日の仕事は、何?」
    急にふられて、絵梨衣は子首をかしげた。今日…明日かな?  いや、今日か。
「あ。今日の取材ね。対談だよ」
「対談?」
「ええ。往年のプリマドンナ、アレクサンドラ・パーヴロヴァと、彼女に影響を受けた若きフィギュアスケーターたちが対談するの」
「へぇ。アレクサンドラ・パーヴロヴァか」
 氷河の声のトーンが、先ほどより少し柔らかくなった。
「知っているの?」
「マーマが、世界一のプリマだって絶賛してた」
「ん。お目が高い!  連邦時代の筆頭よ」   絵梨衣も気をとり直し、目頭をぬぐってから、電気をつけた。
 見上げた掛け時計が、午前1時をさしている。
「氷河さん、けっこうバレエ詳しいよね。この雑誌、読む?」
 絵梨衣は、デスクに山積みにした資料の中から、何冊か雑誌を手渡した。
「へえ、年代物だな」
「連邦時代の雑誌って、貴重なのよ」
「ありがとう。読ませてもらおうかな」
「お茶、煎れてくるわ」
 備え付けの小さなキッチンに向かうと、さっそくペラペラとページをめくる音がした。
「お母さまが、バレエをたしなんでいらした頃のじゃないかな?載ってたりして?」
「そうしたら、会社からでも電話かけてくるだろ?」
「しませんよ~。そんな公私混合」
「プロになる前に、怪我で引退してるんだ。普通にないだろ」
「あ、道理で。それらしいナターシャさんがいなかったわけだ」
「……探したっていうか、調べたんだ」
   さすがの氷河が、若干あきれた。
「氷河さん、お母様にバレエは習わなかったの?」
「オレが? まさか」
 お湯を沸かして紅茶を煎れている間、氷河はとてもリラックスした様子で雑誌を眺めていた。
 近い将来、彼の隣でこんな風に過ごす毎日が訪れるのだろうか。
 プロポーズの言葉を聞いたばかりの乙女としては、未来を夢想せずにはいられないシチュエーションだ。
「紅茶に添えるジャム、苺とコケモモどっちがいい?」
 ひょいとキッチンから顔を出すと、愛しい人は雑誌のあるページを放心したように凝視していた。
「なぁに? 何か、気になる記事でもあったの?」
「マーマ……?」
「はい?」
 絵梨衣は、吸い寄せられるように彼の隣に座った。そして、彼が指差すモノトーンの写真に目を走らせる。
 それは、本日の取材相手、往年のプリマドンナが、無名だった頃の写真だった。
 白黒写真だが、妖精を思わせる可憐さは十分に伝わってくる。彼女の両隣も、たいそうな美少女たちで、それぞれ首にメダルをかけている。
たった3センチ四方の小さな写真の、右隅の少女を氷河は「母」と呼んだ。
 彼が生まれる前に世に出た、古ぼけた雑誌の記事をさして――。


 

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