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天敵に遭遇した小動物みたいに、絵梨衣が震えている。
大判のトートの紐を、両手でぐっと引きよせて。
氷河は、ゆっくりと彼女に近付いた。
もともと喜怒哀楽をおもてに出す方ではないが、自分で顔がこわばっているのがわかる。
氷河は何も言わず、重たそうなトートに手をかけた。女性に親切な彼の、癖というか習慣みたいなものだ。
絵梨衣は両手でトートを抱き締め、首をふった
「どうして? どうしてここに氷河さんがいるの?」
「それは、こっちが聞きたいよ」
氷河は平坦に
「何日も連絡をよこさないから。心配するだろ。職場に問い合わせたら、休暇だっていうし」
「あ……ごめ……」
「それから、アレクサンドラ・パーヴロヴァに会った。絵梨衣のことを聞いたら、たぶんここに来るんじゃないかって、教えてくれた。まさか、鉄道を使うとは思わなかったけど」
絶句する彼女に、言葉をはさむ隙も与えず、畳みかける。
「オレが生まれた家にも行ったんだろ。それで、隠蔽したくなるものを見つけたと。そういうことでいいんだよな? 君がここに来た理由も、荷物を渡せない理由も」
「……」
絵梨衣は、否定も肯定もしなかった。
ただ、ワックスがはげかけた聖堂の床に、視線を落としただけだ。
「答えてくれるよな? その荷物の中身は?」
絵梨衣は、首をふる。
「日記、か?」
「……」
「読んだのか」
「……」
「……」
嘘のつけない彼女を、ずっと愛おしく思ってきた。
だが、今は違う。
彼女はいったい、何に頑なになっているのか。
母の日記の何が、彼女を頑なにさせるのか。
もちろん、思い当たる節はある。
「母が娼婦だったって知って、軽蔑した?」
軽い調子で、あたりをつけてみた。
絵梨衣の頬が、一瞬で蒼白した。
『どうしてあなたが知っているの?』と、言わんばかりだ。
氷河は、苦笑した。
バレリーナを廃業した直後、母がすさんだ生活を送っていたことは、父から聞いている。
8歳だった氷河を「娼婦の子」と呼んだのは、彼だ。
ショックは受けなかった。言葉の意味がわからなかったからではなく、説得力がなかったからだ。
氷河の知っている母は、針子をしながら生計を立てていた。夜中に目を覚ますと、ランプの光を頼りに縫い物をしている後ろ姿を見つけた。 貧しいことは、貧しかったと思う。 だが、生活態度も服装も慎ましくて、娼婦のそれと一致しない。そもそも、道を踏み外すような交友関係なんて、気配もなかったのだ。
父の言葉と現実の母の間に接点がなさすぎて、「もうろくしてんのか、この爺」と思ったのが正直なところだ。
ごく最近になって、祖国の孤児たちの現状を知って、あり得ない話ではないと思うようになった。父の援助なしに足を洗うことは不可能だったであろうとも。アレクサンドラも、ダメだししてくれたし。とどめは、絵梨衣の顔に書いてある。
「じゃあ、憐れんでいる?」
「……違うよ」
絵梨衣は彼を見上げたまま、へなへなと座り込んだ。
真っ白な顔で、口を一文字に結んで、トートの持ち手を血が出そうなぐらい握りしめて。
氷河は彼女の眼前に膝をついて、ゆっくりと手を差し出す。
「返せ。お前のものじゃない」
だが、彼女は意固地にそれを離さない。
「どうして」
頑なで無力な娘を、氷河は冷たく見おろした。
「渡せない理由ぐらい、話せよ」
絵梨衣は、我が子みたいにトートを抱きしめ、首をふるばかりだ。
辛抱強い氷河も、さすがに苛ついてきた。
「これは……氷河さんのじゃない」
電気のない聖堂が、刻一刻と暗くなってゆく。
黄昏の近い薄闇の中で、絵梨衣はきっぱりと断言した。
「氷河さんのじゃないんだよ」
いつも、どんなときも慈しんできた娘に、憎しみに似た苛立ちが沸いた。
「じゃあ、お前のか?」
「違うよ」
一歩前に出ると、彼女も一歩引いた。
だが、目から怯えの色は消えている。
「あなたのお母さまは、素晴らしい女性だわ……」
絵梨衣は、愛しそうに日記の入ったトートを抱き締めた。
もしも時を遡ることができたら、自己紹介よりも先に、彼女を抱きしめたい。
怪訝な顔をされても、不審人物と怪しまれてもいいから、と。
「同じ女として、こうしなくちゃいけないと思ったの。うまく説明できないんだけど」
氷河は聖母子画を見上げ、次に絵梨衣の白い顔を見おろした。
「私のことは、好きにしていいよ。殺しても、湖に沈めても」
「……」
「でも、読まないで」
「正気か?」
「ええ」
「こんな風にしても?」
と、半ば試すつもりで、顎を掴み、細い腰を引き寄せた。強引に唇を重ね、貪るように舌を入れた。
「んっ……んぐっ……」
絵梨衣の喉が苦しげに鳴る。抱き締めているトートが邪魔だといわんばかりに胸を掴むと、絵梨衣は無抵抗で腕をおろした。トートの持ち手を握りしめたままで。
氷河は、抱え込むようにして彼女を床に倒した。スカートをめくりあげ、白い胸をあらわにしても、抵抗しない。
まるで、生け贄になることを受け入れた殉教者だ。どんな責め苦にも信仰を手放さない殉教者のように、彼女もトートを手放さない。
氷河はため息をついた。彼女の肩の辺りに両手をついて、
「怖く…ないのか?」
自然に閉じていた目をゆっくり開き、絵梨衣が微笑む。
「怖くないよ」
「嘘つけ」
「もう、怖くない」
絵梨衣は聖女のように微笑んだまま、両手を広げて背中を抱きしめてきた。
「お母さんになること、もう怖くない」
「……!」
氷河さん、あのね。あなたは私に、何をしてもいいんだよ。
殺しても犯しても、好きにしていいよ。
氷河さんには、そうする権利があるから。
もし生き延びて、子供ができたら、きっと私はその子にこう言うの。
「あなたのお父さんは、愛と正義に生きる素晴らしい人よ」って。
子供にはきっと、理解できないと思う。
でも、女性が男性を愛するって、そういうことなの。
あなたのお母さまに教わったの。
ただ、我が子には説明しづらいだろうなあ。
罪を犯した女が母親になったら、秘密なんてつきものだよ。
私だって、エリスに憑依された過去なんか、絶対に言えないし。
彼女はそう笑った。一滴の涙が頬を伝った。
この娘は――本当に相沢絵梨衣なのだろうか。
いつだって一生懸命に生きていて、いたいけで、庇護の対象だった彼女は、どこにいるのだろう。
怖い思いをさせた、ひどい扱いをしたのに、氷河を抱きしめる腕は限りなく優しい。
まるで、幼い日に抱きしめてくれた、母のように。
氷河は、虚空をみあげた。
薄闇の壁に飾られた聖母子のイコンが、ふたりを無心に見おろしている。取り乱した氷河を責めもせず、優しく見守っている。
氷河は乱した服と息を整えて、彼女の肩を包むように抱き起こした。
力は加減していたつもりが、無意識に凍気が漏れていたのだろう。体が冷たくなっている。
「ごめん……」
「なんで謝るの? 私、言ったよね。氷河さんにはそうする権利があるって」
氷河は苦笑した。
「親父だったらいってただろうけど。違うだろ、こんなの」
「違わないよ」
「一緒にするなよ。わかったよ。トートの中身は詮索しない」
氷河は、やれやれと溜息をついた。
遺品を盗んで隠そうとする絵梨衣につい感情をあらわにしてしまったが、品物そのものについてはさほど興味がない。
「そのかわり、ひとつだけ教えてくれ」
氷河が折れたことで、絵梨衣から悲壮感が消えた。切羽詰まった美しさにそそられないといったら嘘になるが、あれは違う。愛しい男に身を任せる表情ではない。というか、惚れた女にあんな顔をさせてどうする? 氷河は久しぶりに、血を分けた父親をぶん殴りたくなった。
身を売るような覚悟なんか、させなくない。だから
「証拠隠滅なら、モスクワでもできたよな。燃やせばいいんだから。なんで、ここに来た?」
低く、おだやかな声で、耳元に囁いた。
「……。いてもたってもいられずに列車に乗り込んだのが本音で、考えがまとまったのは車内でなんだけど」
「ああ」
まぁ、そんなところだろう。
「この教会に、引き取っていただけたらと思って」
「ここに?」
「うん。お母さまって、ここで洗礼を受けたんでしょう? 彼女の天国に、一番近い気がしたの」
「そう……か」
ようやく氷河は、絵梨衣のしたかったことが理解できた。
広い湖に厚くたちこめた霧が、すっと晴れた気分だ。
「絵梨衣は、少女時代の母を守ってくれたのか……」
そうだ、恐らく初めて氷河に逆らった理由は、そういうことだったのだ。
氷河自身は、日記を読んだところで母への崇拝は変わらないだろう。けれど、母は息子が知ることを望むだろうか。
氷河だって、戦いの詳細を絵梨衣に話したことはないし、話そうとも思わない。父となって我が子を抱く日がきても、子供にそれを言いはしないだろう。我が子が聖闘士になったとしても、拳で伝えるだけだと思う。
勝手に日記を読んだという点では絵梨衣も誉められないが、少なくとも彼女は代価を支払おうとした。それも、命を賭けて。
(そう……か)
額にかかる髪を指先でかきあげると、絵梨衣が不思議そうにこちらを見上げてきた。つぶらな瞳に、苦笑いする自分の顔が映っている。
そっとあごをひきよせ、青ざめた唇にキスをした。勢いと欲望にまかせた激しいキスではなく、謝罪のキス。白かった頬に赤みが戻った。いつもの絵梨衣だ。
「氷河……さん」
「怖い思いをさせて、ごめん」
キスの余韻もあってか、彼女はポカンとしている。
「……怖く、なかったよ?」
「でも、ごめん」
「……」
「日記、絵梨衣が発見してくれてよかったよ。ありがとう」
仏頂面だった氷河が心から笑うと、絵梨衣の表情も和らいだ。
「発見してたのがオレだったら、村に持って帰っただろうし。あっちに置いておいたら、読みそうなヤコフとかアイザックとか、泣きそうな水晶先生とか、クールに号泣しそうなカミュとかいるし。死者への冒涜もいいとこだよな」
「そ……そうね」
「よし、行くか」
氷河が先に立ち上がり、絵梨衣の肩から重たいトートバッグを預かった。
もう抵抗はない。日記の重さが体から離れても、彼女はペタンと尻餅をついたままだ。
「どうした?」
「いえ、あの。腰が……抜けたみたい、デス」
氷河はパチパチとまばたきをした。
まあ、そうなるか。元凶は自分だし。
ならば、と、ふたり分の荷物をまとめて肩に担ぎ、彼女を横抱きにして抱き上げた。
「きゃっ」
なんかこう、申し訳ないぐらい冷えている。
そういえば、近くにバーニャがあった。山小屋風の宿泊施設に隣接していたと思う。今の時期に営業しているかどうかはわからないが、近所の人に頼めば鍵を貸してくれるだろう。シベリアの民は親切なのだ。
「行くか」
「ど、どこに?」
「バーニャ」
「バーニャって……」
朗らかな笑顔が固まって、カーッと赤くなった。
「いや、あの、バーニャって、バーニャって、あのバーニャですよねっ????」
バタバタ騒いで逃れようとするが、彼女の力では不可能だ。
バーニャとは、ロシア風のサウナ。
ロシア国民が、全裸でたしなむ娯楽施設である。
「あれ? 苦手だったか?」
至近距離から顔をのぞき込むと、彼女はもっともっと真っ赤になって、ブンブンと首をふっている。
(あ、そういうこと?)
強姦しかけておいて説得力がないが、この時の氷河は彼女を温めることしか考えていなかった。バーニャにありがちなロマンスなんてものにはもともと縁がないし、今の今まで考えたこともない。
でも、かわいい。こういうところが、かわいい。ちょっと意地悪したくなるかわいさだ。
「言質はとったはずなんだけどな」
「う」
「オレ、お前のこと好きにしていいんだろう?」
「そ……そうだけど。そうだけど。そうなんだけど」
「じゃ、行くぞ」
「う~……」
ほとんど涙目になって赤面している。
彼女の小さな手が肩の辺りの布地をギュッとつかんできた。
「……わかったわ」
氷河の心臓が、トクンと高鳴った。
この流れで、了承するか???
(まったく……)
氷河は苦笑した。
奥手なくせに、よく言うよ。
「バーニャはオレが用意する。支度ができたら呼ぶから、毛布にくるまってミルクでも飲んで待っててくれ。絵梨衣が暖まっている間に買い出しに行くから、入り口の鍵はかけておけよ? 明日は湖の周辺を歩きたいな。母が育った村も、ゆっくり見たいし」
「へ?」
「絵梨衣のこと、好きにしていいんだろ?」
「う、うん?」
「じゃ、まずは神父に頼んで、これを預けるぞ。ほら」
氷河は絵梨衣をおろして、足の先を床につけてやった。絵梨衣はちゃんと二本の足で床を踏みしめて、しばしポカーンとした後、からかわれたことに気がついたらしい。
「氷河さんの、ばかばかばかばかー!」と、広い胸をポカポカやってきた。
コインランドリーに捨てられた赤ん坊は、もう泣いていない。
争いの女神が乗りうつった際に悪事を尽くした記憶にも、泣かない。うつむかない。
自分の足で立って、その白い手のひらで幸せを掴む日が、その幸せを分かち合う日がきたのだ。
この広大なシベリアの片隅で、愛する人の傍らで――。