凍結中のサイト「雪見酒girl's talk(http://loveasgard.yukimizake.net/)」の続編など。
聖闘士星矢アスガルド編、黄金、女の子中心。捏造多め。ノマカプ推し。
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連邦時代のプリマドンナで、現在は人気バレエ団の指南役であるアレクサンドラ・パーヴロヴァは、とても聡明で話し上手な女性だ。
若いバレリーナやフィギアスケーターたちの尊敬を集めるのも頷ける、舞台の外にいても女王のような貫禄や華やかさがある。それでいて気さくで人懐っこいのだ。対談はびっくりするくらいスムーズに進んだ。
収録を終えた絵梨衣は、午後からも厳しい練習に追われるフィギュアスケーターたちに日本のお菓子をプレゼントした。
まだ十代の少女たちは、はにかみながら日本語で「アリガトウ」と言って、スケートリングに戻っていった。
絵梨衣も「どういたしまして」と日本風にかえした。
一方、時間に余裕のあるアレクサンドラには、緑茶に砂糖を入れたもの(なぜか、ロシア人にはノンシュガーよりウケがいい)と、古い雑誌を出した。
「まあ、懐かしいわね」
アレクサンドラの声は弾んでいたが、どこか緊張を含んだ。
「この方をご存知ですか?」
「そうね。懐かしいわ」
ほうれい線に深い皺を浮刻みつつ、往年のプリマドンナは微笑みをくずさない。彼女は記憶力が抜群に良く、一度でも会話したファンの顔は絶対に忘れないという。ならば、同じ舞台で踊った娘を忘れるはずがない。
「ナターシャね。よく覚えているわ」
対談の時よりは老いた、とても優しい声で、苦しげにこう続けた。
「練習中の事故で、足を痛めてしまって。辛かったのでしょう。ある日突然、宿舎を飛び出してしまったの。それっきり。そう、それっきりなのよ」
聞きながら絵梨衣は、対談で使ったテープレコーダーをバッグの奥にしまいこんだ。
仕事ではないし、記録も残らない。
どうか知っていることを教えてくださいと、無言で訴えたのだ。
「あなた、混血よね? 東洋人かしら?」
「はい」
「……財団の人?」
彼女に可能な限り、最も収音器に録音しにくそうなトーンで囁いてきた。
絵梨衣は小さく首をふった。
かわりに、携帯電話を取り出して、ロザリオの画像を見せた。ロザリオの横のカードに、「ナターシャは、このロザリオの持ち主ですか?」と書いておいた。
美しい中年女性は、目を丸くしてうなずいた。
「…。元気で、いるのかしら?」
「いいえ」
絵梨衣は淡々と告げた。
「子どもの父を訪ねて日本に向かう途中、海難事故にあいました。子を救命ボートにたくして、船とともに沈んだそうです」
「……そうなの。あの美しい娘は、もういないのね。ああ、でも、なんて彼女らしいこと!」
そしてもう一度目を伏せると、覚悟を決めたように「メモを」と手を差し出してきた。
悲しみに沈みながらも、その何気ない仕草の優雅なこと!
アレクサンドラにメモとペンを渡すと、彼女は音もなくそれを受けとった。
そして、サラサラとメモを書いて返した。
「財団の人じゃないなら、息子さんのお使いかしら?」
「ええ。そんなところです」
「一介の新聞記者が、よく私にたどり着いたものね。誉めてあげるわ。なるほどね。愛しているのね。ナターシャの息子を」
率直な物言いに、絵梨衣はおもわず赤面した。
「ああ、ナターシャはバカね。誰かを蹴落としてでもボートに乗り込んでいればよかったのに!」
彼女は緑茶をひとくち含むと、細い体で絵梨衣の全身をひしと抱き締めた。そして、いそいそと、そう、一刻も早くその場を離れなくてはならないといった様子で、出ていった。
本当は長居したいけれど、それをしてはいけない。あなたに危険が及ぶかもしれないわ、と。
絵梨衣は、住所らしき走り書きのメモを、大切に手帳に挟んだ。
一箇所はモスクワ。もう一箇所は「リストビャンカ(イルクーツクからバスで)」と括弧書きされている。バイカル湖周辺の町だろうが、地図を見ないことには検討もつかない。
絵梨衣は、彼女が出ていったドアに、言葉なく頭を下げた。
今までは漠然としか感じなかった「連邦時代の言論統制」を、今、はっきりと体感した。
現在のロシアでは、外国人記者にこれといった言論統制を行っていない。
記事の内容も、文化や芸術、風俗、現地の流行を伝えるものが多い。
上司の意向もあって、極度に政治的なテーマには深入りしてこなかった。
親を失った子供たちの現状を伝えはするが、原因となった紛争についてはあまり触れず、「これからどうするか」という視点で書くからか、弾圧の対象になど、なったこともなかった。
もちろん、ここはロシアだ。日本よりは水も治安も悪い。
取材中、貧しい子供たちにカメラやボイスレコーダーをひったくられるなんて、しょっちゅうだ。でも、どこからともなく現れて職務質問をはじめる警官や軍人の方がずっと怖い。没収されたり拘束されたりはしないのだけど。
そういう国なのだ。
国立劇団を退団して久しいプリマドンナが、思い出話にさえ言葉を選ぶ必要がある。
ナターシャの、退団の理由を述べてはならない。
彼女がどこに行ってしまったかも。
メモをくれたアレクサンドラの、勇気に感謝した。
もしかしたら、二度と会ってくれないかもしれない。
2時間後。
相沢絵梨衣はモスクワ市内の、スラムと呼ぶには裕福な、中流階層の居住地と呼ぶにはひなびた街の廃アパートに佇んでいた。
小さな、とても小さな部屋だ。
居間兼食堂兼寝室が、たった一間だけ。
インテリアは、備え付けの薪ストーブと、引き出しつきのデスクだけ。食事用のテーブルもベッドもない。モスクワを発つ前に売り払ってしまったのだろうか。
18年も空き家だったから、埃が厚く積もっていた。
だが、薪ストーブに灰一つ落ちていない。すす一つ残っていない。
床にも目立った傷がない。小さな男の子がいたのに、どんな躾をしたらこんなにきれいな床が保てるのだろう。
しばらくはドアも開けっ放しで突っ立っていた絵梨衣だが、窓辺におかれたデスクに灰皿を発見すると、後ろ手で扉を閉めて、灰皿を拝借した。
埃が厚く積もっているだけで、使用感のない灰皿だ。
氷河の父親が尋ねてきた時の為に、用意しておいたのだろうか。
今となっては、誰にも解らない。
すったマッチをメモ用紙に近づけると、瞬く間に燃えて、灰になってしまった。
この部屋に暮らしはじめた頃、ナターシャは10代後半だったはずだ。
母ひとり、子ひとりで、何を思って暮らしていたのだろう。
今となっては生活感がなさすぎて、想像がつかない。
やかんひとつ残されていないキッチン、靴箱やクローゼットはもぬけの殻。
絵梨衣は灰皿を片付けるつもりで、デスクの引き出しを引いた。
滑りの悪い引き出しだ。開けようとすると、ひどく木が擦れる音がした。何かにひっかかっているのだろうか。絵梨衣は勢いをつけて、引き出しを一旦外に出した。
引き出しの奥には、古ぼけたノートがひしゃげていた。
「あら?」
絵梨衣は腕をつっこんで、ノートを取り出した。ひどい埃だ。これだけで、白い袖が灰色になるなんて。
それより、ノートだ。
ひゃげた紙を指で戻しながらデスクに並べると、赤い表紙が1冊、青い表紙が8
冊もあった。やたら分厚くて紙質の悪い粗悪品で、ちゃんと閉じているノートが1冊もない。それでも青いのは修繕した後が見られるが、赤い方は表紙がはがれかけていた。
日記だろうか。
この世に母親の遺品が残っていたなんて、氷河は夢にも思っていないだろう。
嬉しそうな顔が目に浮かぶ。
亡くなってしまったことは気の毒だけど、お母さんを覚えているのは佳いことだ。知らないよりはずっといい。きれいで優しくて聡明なお母さんだったら、なおさらだ。
とりあえず、一番古そうな赤い表紙のを、仕事用のバッグに入れようとした。 ら、背表紙がほどけてパラパラと崩れてしまった。
なぜか、避妊具が挟まっていた。
読むつもりなんかなかったけど、飛び込んできた文字は
「ебать」だの「чмо」だの「хуй」だの。
下品極まりないスラングが、洪水だった。
なんだか、氷河から聞いているナターシャ象に、まったくそぐわない。
思わず、ページを開いてしまった。
日記の筆者は、貧窮にあえぐ不良少女だった。
尋常でない飲酒量、女衒という名の仲間たち、通り過ぎた男たち、粗末な寝床と食事。
感想はなく、事実を淡々と記録しているだけだが、かえって痛々しい。
やがて、少女は「ミツマサ」と名乗る日本人男性の、子供を身籠もった。
妊娠が発覚した時期から計算すると、氷河が生まれた年の1月下旬が出産予定日だ。
同じ名前の違う愛人さんかもしれない。何しろ100人以上子供がいたんだから、と合点しようにも、子供の名前候補が「Хёуга(ヒョウガ)」とあっては、言い逃れできない。
なんで見ちゃったんだろう。と、絵梨衣は肩を落とす。
他人の日記を無断で読んでしまった罪悪感は、ない。むしろ、どうやってこれを隠滅しようかとさえ思った。
ナターシャを軽蔑したわけではない。
生きる手段がバレエしかなかった孤児が身一つで劇団を追い出されたら、どうやって生計を立てるか。察するまでもない。
だけど、氷河にこの現実を受け入れられるだろうか。
孤児は母親を神聖視する傾向がある。
物心ついてから失った子は、さらにその傾向が強い。氷河はその典型だ。
逆に、コインランドリーに捨てられ、拾ってくれた里親も乳児期に死別した絵梨衣は、「親」という概念がわからない。「きょうだい」もだ。言葉としては理解できるけれど、感情面では考えても考えても未知なのだ。
だからこそ惹かれたし、渇望したし、諦めるためにエネルギーをたくさん使ってきた。孤児だからというよりは、人間として当たり前のことへの認知が、生まれつき歪んでいるのかもしれない。この歪みがエリスを呼んだのかもしれない、とさえ思う。
母を知らない絵梨衣は、母を愛する氷河を、母の過去が傷つけることが怖い。
絵梨衣がナターシャと接点を持てたことを、氷河は奇跡だと言った。
絵梨衣はその言葉に、今は頷けない。
もしも、奇跡がほんとうに存在するのなら、皮肉もセットされているにちがいない。
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