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深夜にモスクワを出た列車は、モスクワ時間の午前4時過ぎにイルクーツク駅に到着した。朝焼けを脱した空が、青すぎて眩しい。シベリア鉄道沿線は、今日もよく晴れている。
東西に長いロシアは、東端と西端で8時間もの時差がある。
モスクワとイルクーツクの時差は5時間。絵梨衣は携帯電話の時計を、イルクーツク時間の午前9時に修正した。
この三日間、時計は見ずに太陽の運行で起きて寝て昼寝までしちゃったおかげで、時差ぼけはない。というか、よくぞここまでダラダラして過ごしたものだと思う。
絵梨衣は荷物をまとめ、モスクワではまだ時期早々と身につけなかった帽子と手袋をして、ファー付きのダッフルコートに身を包んだ。
列車の中は空調が利いてあたたかかったけれど、外は寒そうだ。
どこまでも空が高くて、空気が澄んでいて、アイスブルーを基調とした駅舎とのコントラストが美しい。
ホームに降りて冷たい空気を吸った瞬間、「懐かしい」と思ったのは、何故だろう。
ざっと、まわりを見渡して、なんとなく納得した。
産みの親の国籍なんか知らないけど、絵梨衣の見た目は混血で、白人と黄色人種が混ざっている。
氷河に惹かれたのも、民族的な見た目が近いせいかもしれない。
東京でもモスクワでも、絵梨衣はハーフと認識されてきた。金髪の上、西洋人にしては背が低く童顔で、東洋人にしては彫りが深い。東京もモスクワも、混血が少ないからだろう。目立っているというか、若干馴染みにくい自覚はある。
イルクーツクでは、絵梨衣の容姿は特に目立たない。異邦人なのに現地人みたいだ。とにかく、いろんな人がいる。モンゴル人や中国人みたいな肌や髪の人もいれば、モスクワに多い金髪碧眼もいる。というか、そうとう混血が進んでいるらしく、田舎なのに人種の坩堝、という不思議な光景が広がっていた。
高校生の頃、自分のルーツが知りたくて、バイト代をはたいてDNA鑑定をしてもらったけど。
「バイカル湖周辺がルーツ」なんて、ユーラシア大陸とその周辺に住んでる人、みんなそうじゃん?!と、今さら身を持って思い知ってしまった。
イルクーツクからは、バスに乗り換えた。白樺の林を切り開いた道を2時間弱揺られて、ようやく終点リストビャンカに到着した。
バスを降りると、世界最大の湖バイカル湖が広がっていた。
なんて大きいんだろう!
キラキラ光る水面や湖畔に打ち寄せる波が、まるで海みたいだ。
なのに、潮の香りはしない。ただ冷たくて爽やかな風が吹いている。
バスターミナルは、フェリーターミナルと隣接していた。通行口の広場には、待ちかまえてみたいに魚や土産物、家庭で作ったピロシキなんかを売るテントが並んでいる。
バスを降りた人たちは散り散りになって、ある人はテントを物色し、ある人はフェリー乗り場に急ぎ、ある人はホテルをめざし、あるグループは紺碧に輝く湖にダイブした。
9月下旬のシベリア地方、気温は摂氏5度程度だ。
だが、ダイブした若者たちは笑顔だった。酔っぱらっているのか、素でテンションが高いのか、やたらパワフルだ。
そりゃあ、こんなに広くて、湖底の石が見えるほど透明な湖を前にしたら、飛び込みたくなる気持ちもわからなくはないけど。
絵梨衣は笑い声と、波の音を背後に聞きながら、湖沿いの道を歩きはじめた。
村の外れにあるという、孤児院をめざして。
坂道を登ったり下ったりするたびに、輝く湖が見え隠れする。息は切れるが肺は気持ちいい。アスファルトの東京や、石畳のモスクワにはない、新鮮な空気だ。
鉄道沿線同様、バイカル湖畔も秋の盛りをむかえていた。
赤や黄色の紅葉が、淡い水色と深い水色が織りなす湖が、陽光に照らされてキラキラ輝いていた。
踏みしめる落ち葉さえ、宝石でできているんじゃないかってぐらいに色鮮やかだ。
氷河さんのお母さまは、なんてきれいな場所で育ったのだろう。
才能を見いだされ、単身モスクワに旅立った孤児は、どんな思いでこの美しい故郷を離れたのだろう。
舗装されていない道をハイキング気分で進んでいくと、木々の隙間に聖堂らしきドーム型の屋根と十字架を飾った尖塔が見えてきた。
どこからともなく、歌声が聞こえる。
(あそこが、孤児院か。受付は教会かな?)
ロシアの教会は、屋根がタマネギみたいな形をしていて、とても可愛らしい。
聖堂に近づくにつれ、歌声も近くなった。聖歌だ。子どもたちが歌っているらしい、高くて可愛らしい声。
絵梨衣は、学校のように広い敷地をぐるりと散策した。
子どもたちは、教会の横の広場で歌を歌っていた。
みんな女の子だ。年かさの娘たちは絵梨衣より背が高く、体格もしっかりしている。年少の子は6歳ぐらいだろうか。仲良し同士が手をつないでいる。みんな可愛らしくて、ワンピースからのぞく手足がほっそりしていて、まるで妖精みたいだ。
金髪碧眼の少女もいれば、アジア系の黒髪も、混血と思われるエキゾチックな顔つきの娘もいる。普通に混ざっている。混血児は自分ひとりしかいなかった星の子学園とは違う。
絵梨衣が近付くと、誰がともなく気がついて、歌声が止まった。
「こんにちは。はじめまして。ここは孤児院かしら? 教会かしら?」
少女たちがざわめき、目を合わせたりそらしたりしているうちに、やがて年長の娘が前に出た。まっすぐな金髪を三つ編みにして、白いおでこを出している。音楽隊のリーダーだろうか。いかにも、賢そうな少女だ。
「両方です。学校でもあります。何か御用?」
「ええ。神父さまにお会いしたいの」
「わかりました」
「イーラ、今日はお客さんが多いわね」
深いボルドーのワンピースの娘が、年長の娘の腕をつつく。
「そうね。遠くから来た方を聖堂に案内されていたものね。まだ、聖堂にいらっしゃるかもしれないわね」
イーラと呼ばれた娘はちょっと思案して、それからとびきりの笑顔を絵梨衣に向けた。
「ご案内します」
「ありがとう」
絵梨衣は少女たちに飴を配りながら(仕事柄、飴を持ち歩く癖と、子供を見ると配る癖がついてしまった)この教会と孤児院について、いくつかの情報を得た。
自分たちは、合唱クラブを作っていること。施設には60人近い少女たちが共同生活を送っていること。
毎週水曜日と金曜日に、修道女たちがボランティアにくること。
過去に何人か、オペラ歌手やバレエダンサーを輩出していること。
コンピューターの授業が一番おもしろいこと。
自分たちの親について。
ある子供は好奇心をむき出しにして、ある子供は愛らしくはにかみながら、それぞれの言葉で答えてくれた。イーラの受け答えがやはり群を抜いて的確で、丁寧で、ユーモアもあって、高い知性を感じさせた。
少女時代のナターシャは、どんな娘だったのだろう。
ここの関係者たちは、ナターシャを覚えているだろうか。
少女たちの話どおり、教会と孤児院が別棟でつながっていた。なにげに親近感があるなぁと思ったら、星の子学園と同じつくりだ。
絵梨衣の胸が、懐かしさに震えた。
星の子学園の子供たちを連れてきたら、きっと喜ぶだろうな。
氷河さんが作ろうとしている孤児院の子供たちも――?
少女たちは、聖堂まで送ってくれた。
いろいろと案内をしたいけれど、個々の仕事や、夕餉の準備をしなくてはならない時間だという。
絵梨衣はお礼を言って、イーラにサクマドロップの缶を渡した。
「食後のデザートにどうぞ。私はイチゴ味が好き」
しっかり者が、子供の笑顔で笑った。絵梨衣よりもずっと背が高くて大人びて見えるが、8年生だから14歳くらいだ。
氷河と出会った頃の自分と同じ年だ。
イーラたち年長の娘たちが、小さな娘たちにチョコやフルーツをあげちゃって、自分たちはハッカだけ……なんてならなければいいなと思う。なりそうだけど?どうか、イチゴ味が彼女たちの口にも入りますように。
聖堂の扉は木でできていた。シベリア地方の建造物は、木造が多い。木が豊富で林業を営む人が多いからだろう。石造りの立派な建物もあるが、第二次大戦後、日本人の抑留兵たちが造ったと、たびたび聞く。
絵梨衣は外套を外して姿勢を正した。他は木造だけど、扉の持ち手は鈍色の金属だ。
ギュッと握ったら、ひんやりと冷たかった。
「失礼します。神父さまは、いらっしゃいますか?」
神聖な空気を犯さないよう、静かに静かに扉を開くと、ギィと木が擦れる音がした。
絵梨衣は息をのんだ。
黒衣の神父は、いなかった。
白塗りのドーム天井の下には、いるはずのない人が立っていた。
正面に飾られた古ぼけた聖母子のイコン(聖人画)を見上げている。
冷たいノブを握りしめたま、絵梨衣は呻くようにつぶやいた。
「ひょうが……さん……」
彼は青いシャツにフード付きのジャンバーを羽織っただけの軽装で、黙ってこちらに振り向いた。
まるで、絵梨衣がここに来ることを知っていて、待っていたみたいに。